1945年1月22日エルゼ忌に寄せて
岩脇リーベル豊美
詩人エルゼ・ラスカー=シューラーがエルサレムで亡くなったのは、第二次世界大戦終戦を待たず1945年1月22日だった。今年の今日で70年になる。この日の前後のメディアには、文学史における「妖艶な」、「情熱的でエキゾチックな」、「モダンなアヴァンギャルド」といった形容詞がユダヤ系ドイツ詩人のために踊った。エルゼを紹介するときに必ず挿入される評が以下のものである、「この人が、ドイツにかつて存在したなかで最も偉大な女性詩人だった。[...]彼女の諸テーマはユダヤ的であり、彼女の想像力はオリエント的だったが、その言語はドイツ語だった。豊潤で華やかで、しかも繊細なドイツ語、どんな語句にあっても創造的なものから萌芽するような、成熟し甘美な言語だった。彼女は常に自分に確信をもち、自分自身と幻想的に共謀していたし、あらゆる飽満、確実、小綺麗なだけのものに対して敵対的であった。彼女は、この神秘からヴェールをはがさずに、しかも彼女の本質を覆い隠すこともなく、この言語で熱烈な感情を表現することを可能にしたのである。」これは、数年にわたって恋愛関係をもつこととなる、17歳年下の医師であり詩人であったゴットフリート・ベンが追想しているものである。(Benn,Gottfried: Rede auf Else Lasker-Schüler. In: Gesammelte Werke invier Bänden Herausgegeben von Dieter Wellershoff. Wiesbaden1959,Bd.1, S.538.)数ヶ月前に拙文で触れた詩華集『人類の薄明』に、表現主義詩人ベンとともにエルゼは15編に及ぶ詩を寄せている。どの伝記にも、このふたりの詩人は1912年に邂逅したとあり、エルゼは短期間のうちに、ベンに捧げるべく数多くの恋愛詩を書いている。ベンはというと、1914年にはアメリカへの旅、医長としての昇格、結婚とつづき、上のようにエルゼを評価すると同時に、「不可解な眼差しの、大きな、鴉のように黒いよく動く眼をしていた。当時であれその後であれ、彼女と出歩けば必ず、あたりは静まり返り、皆が彼女の姿を眼で追うことを覚悟しなければならなかった。彼女は奇抜な幅広のスカートやズボンを履き眼を剥くような上着を着ていた。首や腕には、毒々しい偽物の装飾品、鎖、イヤリングがじゃらじゃら音をたてていた」とエルゼの変人振りを克明に描写しているのである。(S.538.)エルゼは自ら「バグダッドのティーノ」や「ファラオの愛人」、また「アラビアの女性詩人」と名乗ることもあったが、75歳の生涯を終えるまで「テーベンの王子ユスフ」に落ち着いていたようだ。そしてベンをして、彼女はそのすべてだったと言わせるのである。
エルゼ・シューラーは1869年2月11日ヴッパータール-エルバーフェルトの裕福なユダヤ人銀行家の家庭に生まれたが、19世紀終わりの離婚後も、両親がなくなったあとも、自分の収入はなく、主に画家詩人仲間に支えられて、一番の支援者はウィーンの作家カール・クラウスだったが、その時期、ゲオルク・グロース、オスカー・ココシュカ、フランツ・マルクやゲオルク・トラークルといった錚々たる当時の芸術家と交友関係を築き、詩集を出版・朗読するのみならず、戯曲を書き、自ら演出したり、画家として展覧会を開いたりしている。そしてその画像を見てみると、詩人自身の写真にしろ、彼女の描いた王子の絵にしろ、ベンの語った風貌のエルザ像が浮かび上がってくるようである。
余談になるが、そういったことをフェイスブックにあげたところ、ウィーンに住む宗教哲学者のともだちが、ヴィットゲンシュタインが雑誌『ブレンナー』編者のルードヴィッヒ・フォン・フィッカーに、遺産相続のうちの(まだ無名のヴィットゲンシュタインが父の遺産を芸術家達に寄贈したことは既知であったが)、十万クローネから二万クローネをリルケとトラークルに、ユスフ王子であるエルゼとココシュカに好きなように分けるようにと、フィッカーに渡したということが書かれていない、というコメントをもらった。その事実は知らなかったが、とにかく壮絶で、芸術のための素晴らしい土壌でもあり、時代でもあったことは確かだ、とそのコメントにもヴィットゲンシュタインにも感謝したのであった。
エルゼは1914年に『テーベの王子』を出版しているが、登場人物に、ユスフ王子はエルゼ自身で、蛮人ギーゼルヘアはベン、黄金騎士はトラークル、地頭はフィッカー、フランツ・マルクは青騎士で、ヴィットゲンシュタインは地主だそうである。ちなみに、青騎士フランツ・マルクとテーベンのユフス王子との間には、まったく私的で自筆の詩的画家的カードや書簡のやり取りがなされ、エルゼからは66通、マルクからは28通が送られている。その書簡が何年か前にカタログになったので、どうしても欲しくて購入した。
1927年にはエルゼは、息子パウルの死に打ちひしがれ、33年にヒトラーが帝国宰相になると、彼女を取り巻く環境は一変し、1939年、仲介者も同伴者もなくパレスティナへと逃亡。それでも、1943年にはエルゼの最も美しいと言われる詩集『私の青いピアノ』をエルサルムで、もちろんドイツ語で出版する。ヘブライ文字の碑文のある墓標はオリーヴ山に建てられている。前日、詩工房で追悼の意をこめて読んだ『私の奇蹟』より拙訳。
『そっと言う』 エルゼ・ラスカー=シューラー
あなたはすべての星を取りあげた
わたしの心を経て
わたしの思いが縮むから
踊らなければ
あなたはいつも見上げさせるばかりで
わたしの命を疲れさせる
わたしにはもうこの宵を
垣根越しに運び出せない
小川の鏡にもう
わたしを見つけられない
あなたは天使から
浮遊する瞳を盗んだ
でもわたしはかれらの泥流から
摘み食いをする
わたしの心はゆっくりと没落するが
何処へかは知らない
わたしの組織のあちこちに襲来する
おそらくあなたの手のうちに
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